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音楽でできること          2004年3月25日 発行

 私のギター教室では、中級まで進んできた人には、その人が好きな曲を弾いてもらうことにしている。フラメンコであってもクラシックであっても構わない。あまり難しすぎる曲や私が弾いたこともないような曲は遠慮してもらっているが、たいていは、マヌエル・カーノ先生の曲か私の曲、あるいは有名なクラシックギター曲である。クラシックではフランシスコ・ターレガの「アルハンブラの想い出」や、禁じられた遊びのテーマをもとにした「幻想のロマンス」などは人気曲である。

 私の曲でよく弾いてもらっているのは、フラメンコでは「去り行く夜のソレア」「潮風の町」「予感」「湧く泉」「モーロの幻影」「風に舞う」「クリスマスの夜明け」「憧憬」など、フラメンコを離れた自由な形式で、「アフィナンド」「王のジャンプ」もよく弾かれている。

 そんな中で、まもなく入門20年になる小松佳久君が、自分のオリジナルも含めて色々な曲を弾いてきて、最近、萩原朔太郎の詩をテーマにした「地面の底に顔があらはれ」「夜汽車」といった、私が作曲した中でもちょっと特殊な曲に挑戦している。

 フラメンコの曲は、私自身もフラメンコの約束事に捕らわれながら作曲している部分もあるので、フラメンコの約束事は別として、特にこうでないといけないというほど表現の仕方にはこだわらず、本人の創造性を加味してでも弾いて欲しいとも思うのだが、朔太郎に関わるとそうも行かなくなる。

 つまり、朔太郎の詩の世界を表現したこれらの曲は、朔太郎の精神世界をも含めての音作りをしており、一音一音の音色にまで意味があると思っている。「明るい歌詞には明るい声を」「悲しい曲には悲しい声で」といった、歌の世界では常識とも言えることがギターの音にも求められても当然だろう。

 ギターという楽器は想像以上に難しい楽器で、メロディーという重要な要素をなめらかに弾くことは特に難しい。その難しさに一音一音の音色も要求されるのである。指先の微妙な力や爪の当て方で音色は変わり、音楽の表情は大きな変化を見せる。大きな音・小さな音・明るい音・暗い音・輝かしい音・曇った音・通る音・近い音・遠い音・立体感のある音・幅の広い音・・・、それぞれの音をどんな風に鳴らし、どんな風に聞き、それらをまとめて音楽の表現につなげるか。

 小松君がこれらの曲を弾いてくれることによって、私自身が自分では気づかずに無意識で弾いていたことが明らかになってくることは非常に面白い。楽譜を見て音をとり、それを自分のイメージで音楽にしようとしているのだが、必ずしも私が意図したところを汲み取ってくれているとは限らない。その一つ一つを小松君に説明してゆくとき、それは自分自身の内面との対話でもあるとも思え、あらためてその曲の表現の仕方を確認しているような気もする。

 すべての芸術がそうであるように、音楽には音楽でしか表現できないことがあるから、音楽の意味がある。朔太郎が詩で表現しようとした精神世界を、音楽の音によって人間の感情の深い部分に及ぶことができたら…。

 小松君への現在のレッスンは、自分の曲を客観的に鑑賞できる貴重な時間でもあり、芸術の奥深い喜びを味わえる至福のひと時でもある。

 もうすぐ夜桜コンサート
  境内の桜開きて弦を待つ

 バレエとの共演を終えて
  踊り子の肢体あでやか桜咲く

                                                     一葦